いつものように出社してからそそくさとVFブログを巡回していると、どうやら某所の
新興プロレス勢力から私の力士が名指しで挑発されており、あろうことか私の屍を越えてゆこうとしているではありませんか。
これは何たる屈辱でしょうか。いくら
稽古嫌いの私といえどもこの挑戦に対し火が点かないわけがありません。
神様、仏様、面白山様と言われたこの私も三原山みたいに噴火するぞ、と前回のエントリーにて警告していたのですがどうやら噴火の時期は近そうです。
ところで、何故私がここまでスモウに対してこだわっているのか、賢明なる読者諸兄にはまだ伝えていなかったと思うので、私のスモウに対する熱い思いを吐露させていただきます。
頭脳明晰なる読者諸君の事ですから、あらかたネタキャラだからだろうとか、たまたまエアーホッケーからカードが出てきたからだろうとか思っておられるでしょう。
ところがどっこい、私にだってもっともな理由があるのです。
時は1980年代。ワカタカによるスモウブームが来る前に既に私はスモウの虜になっていたのである。幼稚園から帰るとまっさきにテレビをつけ、スモウを見ていたというのである。しかも、大体夕方くらいから幕内が始まるのだが、園児の私は何と昼過ぎから始まる
十両から見ていたというのだから驚愕である。十両から相撲を見続けなければいけないとか、今だったら完全なる罰ゲーム級の苦痛である。当時の私の記憶によると、それはもう魅力的なスモウ・レスラーで溢れていた。先ずはトンデモない量の塩を撒きまくる水戸泉。通常の力士の3倍は塩を撒き散らす事で有名だった。次に突っ張りの寺尾。この人は本当に
開幕PPPしかしない。PPPPPP(前入れはしている)しかコマンド入力できないのである。それでも見てる方はそれを期待していたし、まぁまぁ強かった。大関には言わずもがなのモンスター・小錦やら旭富士、北東海などの強豪が名を連ね、時の横綱は破竹の53連勝という
自作まがいの連勝記録を成し遂げた、千代の富士が鎮座していた。
そんな中、千代の富士の影に隠れ、完全なる悪役として存在していた横綱がいた。彼の名は、泣く子も黙る双葉黒。千代の富士が正義の模範力士なれば、この双葉黒は完全なる不良力士であった。今でこそ力士が相当にワルい事は明るみになっているが、当時幼稚園生の僕にとってワルい力士なんてのは相当にインパクトがあった。何せ双葉黒は、基本中の基本、稽古が嫌いだったのである。少しでも稽古がきついと、即座に
「故郷(くに)に帰ります。」
を連発するのである。しかもある時、弟子が勝手に双葉黒のファミコンをやったという理由で暴力事件を起こしてしまう。さらにFFⅢのセーブデーターを弟子に消された事がきっかけで女将さんにまで暴力沙汰を起こす。とんでもない横綱なのである。稽古を嫌い、PC-9801を使い当時からパソコンで相手力士のデータを管理するという破天荒ぶり。そんな彼の輝かしい経歴を簡単にご紹介しよう。
横綱 双葉黒 (北尾光司)
1986.5 小錦にサバ折りを決め、致命傷を負わせる (これが原因で小錦は生涯膝に致命傷を抱える事になり、以後は衰退の一途を辿ってしまう)
1986.7 前代未聞の優勝経験なしの横綱に承認される。
1986.10
付き人をエアガンで撃つ遊びをやめず、厳重注意される。
1987大晦日 親方を蹴り飛ばし、24歳にて破門
1988
スポーツ冒険家という肩書きを自ら掲げ活動を開始
1990
結局はプロレスラーとなり、新日本プロレスでデビュー
1990~1991 相変らず練習嫌いであり
「今日は腰が日曜日」を連発し、サボりまくる。
1991 長州力に対して
「この朝鮮人野郎」と暴言を吐き、解雇される。
1992 SWSに復帰するも、
プロレス界ではタブーとされている
「この八百長野郎」発言により解雇される。
1992 総合格闘技へと転進。
1994 北尾塾(格闘技塾)を発足(最後まで塾員は1~2名であった)
1997 PRIDE.1にて初勝利を収めると
直後に引退表明
1998
青年実業家へ転向
2003 決して相撲協会には所属しない、
フリーの相撲コンサルタントとなる
生涯を通してのオリジナル技
北尾ドリラー:相手を肩にかつぎ、そのまま垂直に脳天をマットに突き刺す危険技である。
難易度は低いが危険度は高いという、北尾らしい技である。
以上である。私は幼少の頃より彼の相撲に魅せられ、そのやる気のなさとふてぶてしさには虜になった。そんな私の双羽黒を意識した力士に対して、挑発をしている輩がいる。どうやら明日、渋谷にてかわいがりを行う必要があるようである。